作ることと使うことについて考える

2012/07/15

東京女子大学教授 森 一郎


 私は、愛知県立芸術大学のキャンパス問題については詳しく知りませんが、東京女子大学体育館解体問題(註)に学内者として関わった一人として、他人事でない思いを抱いています。ふだんは哲学を勉強しておりますので、その角度から、ささやかながらごく一般的な考察をしてみたいと思います。

(註:東京女子大体育館――通称「旧体」――は、東京女子大学キャンパスを設計したアントニン・レーモンドの初期代表作の一つで、1924年竣工の大正期コンクリート建築です。1922年竣工の東寮とともに、キャンパス再開発事業により取り壊しの対象にされ、2007年の東寮解体に続いて、2009年7月、多くの学生、教職員、卒業生に惜しまれながら、85年の歴史に幕を閉じました。建物としての旧体の魅力については、三沢浩氏の『レーモンドの失われた建築』(王国社、2010年)が一章を割いて説明しています。また、東寮と旧体の保存活動全般に関しては、卒業生有志の会「東京女子大学レーモンド建築 東寮・体育館を活かす会」編の『喪われたレーモンド建築』(工作舎、2012年)に記録が集成されています。ちなみに、この書の口絵7頁には、旧体二階にあった暖炉に火の点った写真が載っています。これは、奥村昭雄・まこと両氏の立ち会いと指導のもと、一日だけ復活したレーモンド作暖炉の貴重な映像です。)

私がいつも多くを学んでいる哲学者ハンナ・アーレント(Hannah Arendt, 1906-1975)は、その主著『人間の条件』(The Human Condition, 1958. 邦訳ちくま学芸文庫)のなかで、「物を作ること」について立ち入って考察をしています。哲学的な一般論ではありますが、建築という物作りにも通ずる問題を扱っているので、さわりを紹介しておきましょう。

 物を作ることは、何の変哲もない人間の営為ですが、だからこそ、哲学の重要なテーマであり続けてきました。たとえば、古代ギリシアのアリストテレスは、「自然」と区別して「技術(テクネー)」を論じ、また「活動」と区別して「制作(ポイエーシス)」を論じています。比較的近い19世紀のマルクスや20世紀のハイデガーも、資本主義的生産様式や現代技術について独自の考察を行なっています。そんななかでアーレントの議論の特徴は、何といっても、「作ること・仕事(work)」を、「働くこと・労働(labor)」と区別している点にあります。何かを生産するという点からすれば、働くことも作ることも同じではないか、と思われるかもしれません。しかし、そこには厳然たる違いがあるのです。

 われわれは生きるかぎり働かなければなりません(誰かに働いてもらう場合もありますが)。生活の必要を確保するこの種の営みが、労働です。労働によって生み出される生活必需品の代表は、「糧」つまり食べ物です。これは、日々の食卓に並べられては、そのつど食べ切られるべきものです。もちろん保存される場合もありますが、あくまでそれは食べるのを延期されるだけの話です。われわれは食べたら、また働きます(寝ることもありますが、それもまた起きて働くためです)。働いて食い、食っては働く、いっそう正確には、食うために働き、働くために食う――このサイクルをえんえんと繰り返すことから、つまり労働と消費の果てしない反復から、われわれの日常は成り立っています。

 このように、労働は、消費と一体となってはじめて意味をもちます。とくに現代では、労働者は同時に消費者であり、労働者社会は同時に消費者社会です。

 では、作るとは、どのような営みでしょうか。仕事によって作られるのは、「物」です。物にも色々ありますが、たいていは、一定の目的のために用いられる「道具」です(芸術作品はひとまず措きます)。たとえば、書物は読まれるために、建物は住むために作られます。書かれた物を読むことも、建てられた物に住むことも、作られた物を使うことです。作り手としての作家や出版者、設計者や建築士は、使い手としての読者や居住者に使ってもらうために、企画を練り材料を手に入れ技術を操って、作品を生み出すのです。制作物は、制作者本人が使う場合以外は、譲られるか売られるかして誰かの所有物となり、この所有者によって使用されるのです。所有と使用とが後続する点で、仕事は、労働と消費の循環とは明らかに異なります。もちろん制作者も、一個の生活者であるかぎり、食うために働かざるをえません。今日では、職人だって企業に雇われる労働者たらざるをえないのです。しかし、生活の必要という発想だけでは、物作りは成り立ちません。たんに生きることではなく、作ることそれ自体でもなく、作られた物そのものが、ここでは肝要なのです。物へのこだわりが、物作りを物作りたらしめます。それでいて物は、それ自体で意味があるというよりは、他の何かの用途に役立ってこそ価値があります。有用な道具として使われることに、物の存在理由はあります。

生活の必要を満たす労働生産物が消費されるのに対し、仕事の産物である物は、使用という目的のための手段であり、使用対象物です。働くことと食うことが一体であるのと同じく、作ることと使うことは一組なのです。

ただしこの二通りのペアは、そのあり方がまるで異なっています。労働と消費は、ワンセットとなってひたすら同じことを繰り返します。まさにニーチェの言う「永遠回帰」です。いったん始まった生が続くかぎり(種の存続もこれに含まれます)、その過程に終わりはありません。これに対して、仕事は、そのつど明確な始まりがあり、制作過程が一定の間続き、物が仕上げられ完成すると、明確な終わりを迎えます。同じ物を作る場合には、制作過程が繰り返されますが、そのような反復は物作りにとって本質的ではありません。物は、制作過程にとって「目的=終末(エンド)」なのです。作ることがいったん終わってはじめて始まるのが、使うことです。ここでは、物は道具手段として、別の目的のために用いられるのです。そして、この使用が、これはこれで、一定の期間続きます。物は、それが物らしい物であればあるほど、長く使い続けられることを求めます。本は読まれ続け、家は住み続けられるほうが、物としてはふさわしいのです。すぐ読み捨てられるモノは、書物とは呼べないし、建てたそばから壊されるモノは、建物とは呼べません。

このように、物は一定の耐久性をもっています。しかもただ存在し続けるのではなく、持続的に使用されるのです。制作者によって完成させられ終わりに達した物は、はじめて所有者の手に委ねられ、有用な道具としてのあり方を開始します。労働生産物が消費されてすぐ無くなるのと違って、仕事の産物は、使用対象物として存在し続けるのです。同じことの繰り返しとは異なる、恒常的存続性が、物の存在には固有に属しています。

もとより、人間の作った物は、いずれ古くなり、擦り減ったり壊れたり朽ちたりします。人工物は、生き物とは別な「寿命」をもつのです。とはいえその命運が、作り手自身の寿命より長い場合も、まれではありません。世代を超え時代を超えて、読み継がれる書物、住み続けられる建築物が、「不朽」の永続性をもつことだってあるのです。

作られた物を、使い捨てるのではなく、長く使い続けるためには、そのつど手入れを施さなくてはなりません。維持し保存すること(メンテナンス)とは、そのまま置いておくことではなく、保守、補修、修理することです。ただ放っておけば自然の掟に従ってダメになってしまう物を、使用者としての人間は、手間をかけて面倒をみ、大切に保って、存続させるのです。これは基本的に、自然的消耗や劣化に対して倦まず繰り返される労苦と骨折りですから、一種の労働です(食を賄う炊事と対照をなす家事労働としては、衣・住に関する洗濯と掃除があります)。とはいえその作業は、たんに生活の必要を満たすためではなく、物を使うことに属するものであり、しかも、たとえば再製本や改修工事に見られるように、物作りと技術的に連携しますから、仕事の側面もそなえています。保存という営みは、人間によって作られた物を労わり慈しむことであり、あえて言えば、「世界を愛すること」なのです。この場合の世界とは、同じことをひたすら繰り返す自然に抗して、人工的に作られた耐久物からなる人間の住みか全体のことです。「世界」という言葉が大げさに聞こえるなら――それでいて「家」という言葉が狭苦しく聞こえるなら――、「街」と言いかえてもいいでしょう。物作りは、「街作り」という仕方で取り集められるのです。

今回は、街から国へといった大きな話は控えることにし、与えられたテーマに限定しましょう。大学に集う学生や教職員にとっての世界、それは「キャンパス」です。

キャンパスという場所は、校舎や蔵書をはじめとする数多くの物たちからなる共通の場所であり、優れて公共性をもっています。大学の所有者は法人でしょうが、主たる使用者は学生、次いで教職員です。この場合、教室で授業を受けたり図書館で本を読んだりして学生生活を過ごすことが、物の「使用」に当たります。学生はキャンパスを私物化するのではなく、公共の物として大切に使わなければなりません。注意すべきは、世界を共有する人びとは、現在の同時代人だけではなく、時代を異にする過去と未来の人間も含まれるという点です。学園を創め校舎を造った創立者以来、最初に学園に集った学生たちの時代から、現在に至るまでの、大学の歴史を担った人びとが、共同使用者として、キャンパスに関わってきたのです。歴代の学生や教職員によって、大切に使われてきたからこそ、今日の学園があり、また現に大切に使われているからこそ、将来の学園もあるのです。大学を愛するとは、即物的に言えば、キャンパスを愛することです。人間のような忘れっぽい生き物にとっては、校風の確立、卒業生間の連帯、創設の精神の継承といった、いわゆる精神的なものは、物的な拠り所なくしては、おぼつかないのが実情です。

学園は、それが労働現場でも消費基地でもないとすれば、しっかりした作り手によって建てられ、住むという仕方で大切に使われる場所でなければなりません。そのつどの移り気なオーナーの短慮や打算によって再開発や投資の対象にされることは、街作りにとって重大ですが、大学にとってはまさに致命的です。とりわけ肝に銘じなければならないのは、作ることと使うことは、一続きのプロセスだという点です。それゆえ、作る者は作りっ放し、使う者は使いっ放しという発想は、改めなくてはならないでしょう。

これまで見てきたように、物を保存し保守することは、物作りに後続する物の使用の際立ったあり方です。労働という面を兼ね備えたこの仕事は、使い手が働き手となり作り手と連携する共同事業なのです。長持ちする物の場合、それは間世代的な共同性をもちます。代々の学生が、消費者としてではなく使用者としての責任をもち、使いっ放しであとは野となれ山となれではなく自分たちのキャンパスを大切に守ってゆくこと、そこに大学への愛が育まれるのです。またそのためには、設計者や建築者も、作りっ放しではなく、各々の責任に応じてこの保守作業に共同参画することが望ましいでしょう。

繰り返しになりますが、作ることと使うこととは、したがってこの場合、建てることと住むこととは、協働し合わなければなりません。キャンパス整備を業者に丸投げして学内者はそっちのけとか、受験生という名の似非消費者のニーズばかり気にして在校生や卒業生は二の次三の次とかいったやり方は、いかがなものでしょうか。

2012年7月15日)